真意 ~足しても引いてもならぬ物~

人から発せられる言葉や文字には、真意というものがある。
何気に聴いていたり読んでいては、その真意を見失ってしまう。
特に偉大な人の言葉や文字、そして芸術にもメッセージ込められている。
それを言霊(ことだま)と呼ぶ人もいる。
心の耳や心の目でなければ、きっと伺い知れない物だろう。

大切なのは向き合うこと。
しかし、向き合ったからと言って、決して100%ではない。
送り手と受け手の育った環境が違えば、当然に送信機も受信機の作りが違う。
それでも、向き合う以外に100%へ近づく方法はない。
要は、受信機の精度を上げて行くしか方法が無いということだ。
同じ本を読んだとしても、20代と40代と感じ方や意味合いが変わるのも、そういうことだ。

そこで、歴史はいつも同じ過ちを起こしてしまう。
それは、向き合っている物の間に第三者を入れてしまうことだ。
ただ単に一言一句を間違えること無く、通訳もしくは伝えることが出来れば
不幸は免れるが、第三者の考え(解釈)が加わると限りなく100%から遠ざかる。
例え受け手の感度が良くても、間に人が入れば入るほど別物を受け取ることになる。

その一番の例が、仏教である。
まず初めに仏の心を悟ったのは、釈尊(お釈迦様)以外の誰一人でもない。
弟子は、師匠が語られた方便や説法を書き残したのが経典である。
それを学び教えを広める者や、その教えを学ぼうと他国から赴き自国語に書き写して
広める者もいた。
時間や時代を超え世界へ広がる中で、膨大な経典の中で『釈尊の真意はこれだ』と
結論付ける者が現れ、民に説法を解く。そこで新たな宗派が生まれる。
その新たな宗派でさえ、開祖の弟子が説法や手紙などを御書として学び広げる。
更に解釈の相違から新たな分派が生まれる。
これだけ多くの宗派を持つということは、それだけ間に人が入ったということである。
間に人が入れば入るほど、血は薄れ水に近い物になる運命だと思う。

真意を見抜くためには、足すことも引くこともせずに、ただ向き合い感じるしか無いのだ。

逆に、送り手はどれだけ正確に伝えられるかという課題が付きまとう。
受者が伝者となった場合、仮説であれば仮設として伝えれば良いことである。
それが真意だと思っていたとしても、本当の真意かどうかは定かではない。
そこに一切の感情を入れず、伝え広げることが大切であると私は考える。

なぜなら、伝えた人はひとり、伝えるべき心は一つしかないからだ。

※昨日の内容もそうですが、出家するわけではありませんよ!(笑)

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